校長挨拶

ご挨拶

駒込学園 -新しい学びについて-

受験生のみなさんへ
ディープラーニング・コンピテンシーの育成


一.これからのみなさんの世代にとって「英会話力」は世界に向けて開かれた「新しい窓」です。本校では「英会話」というツールで世界とのコミュニケーション能力を身につけて行ってもらいます。オールイングリッシュでのイマージョン授業に参加してみてください。世界が大きく開かれるはずです。

二.不得意科目があってもそれを「劣る」とは見なさず「個性」だと考えることが欧米の常識です。「世界標準」の個性を身につけて「個」の独立を図って下さい。

三.得意なものを上限を設けずどんどん伸ばすことがこれからの自己表現です。「自分ならできる!」という自己肯定感を生み出して実践して行ってもらいます。

四.学力が低くても学びへの意欲や努力の過程が評価されれば大学へも進学でき、奨学金も得られるのが欧米の価値観であり教育制度です。その価値観の持てる国際人、その制度を作れる日本人になりましょう。そのためには、自分だけではなく、次世代の子供達の未来に賭け、評価し、投資するというアントレプレナー(起業家)的発想のできる青年にならなければなりません。高校生は欧米ではすでに親から自立しています。日本の子供の親離れは35歳です。この落差を埋めて行ってください。「18歳選挙権」の時代に日本も突入したのです。15歳の高校新入生にとって、あと3年で主権者の一員です。

五.豊かな学力はいつの時代でも必要です。しかし、「学力」イコール「人間性」ではありません。学問的にいえば、人間性の中の「技能力」である学力が占める割合はわずかに10%であると定義されています。残りの2割が「論文力」です。その基礎が「思考力・判断力・表現力」です。そして残りの7割が数値化されない非技能分野なのです。人柄の温かさや、誠実さや、信頼というものはこの非技能分野の豊かさからかもし出されてくるものです。未開のブッシュマンが学力的に無知であっても、立派な人格を有するのを見ればそのことが良くわかります。本校では偏差値的学力をX軸、論文力をY軸、人間力をZ軸として豊かな立体構造型の教育を展開して行きます。

六.日本のこれまでの学校は、今の成績が悪ければ次の学びの門は決して開かれませんでした。だから、とにかく受験で良い学校に合格するための1点差勝負の競争をやってきました。言い換えれば、10%の技能能力の競い合いを営々とやってきたということです。今、これが根底から突き崩されつつあります。人類よりもこのアルゴリズム(定式化されたものを間違いなく完全に正確にスピーディーにやってのける能力)の勝負に、圧倒的に優秀な「人工知能ロボット」が出現して来ているからです。産業界では、人工知能に任せれば無人化できる分野が一気に広がりつつあります。労働生産性の観点から言っても産業ロボットが投入された瞬間、大量の失業者が巷にあふれ出ることになります。今、皆さんは、これまでの学力観では生きて行けない時代に直面していることに気づいてください。そろばん片手にスーパーコンピュータに勝てる時代ではもはやないのです。必要なのはスーパーコンピュータを片手に「新しい時代」を創造して行ける人間であり、「そのためのクリエイティブな学力(創造的学力)」を持つことなのです。

七.これからの新しい学びを「アクティブラーニング(能動的学習)」と言います。物事を掘り下げて、「使える知識として学ぶ」ということで「ディープラーニング」とも言います。また、答えをあらかじめデーターベースからオンデマンド(直接的)に取り出し、それを持ち寄って学ぶという意味から「フリップドラーニング(反転学習)」とも呼ばれます。これからの学びは、先生から一方的に流されてくる知識を受動的に暗記して行く学びではなく、授業者自身が学びの目的や内容を自己設定して豊かに深く掘り下げて身につけ、それをプレゼンして行く学習へと変化して行きます。よって、自学自習がこれまで以上に重きを持つことに為ります。そのための学びが「ICT授業」でありそのツールが「電子黒板・プロジェクター・タブレット端末」です。本校では新入生全員にタブレットを持ってもらい、入学と同時にICT授業を展開します。このICT授業では、たとえば英語学習で「次の授業まで第3章の英文をネイティブの発音と速度で読めるようにしてきなさい」と指示されたら、それができるまでタブレット上のネイティブの発音を何回も聴いて「できるまで練習してくるという学習スタイルになります。数回で出来る生徒、10数回でできるようになる生徒…と、身につくまでの回数に個人差はありますが、全員ができて定着して来ることが条件となって次の授業が行われます。即ち、全員に課せられた定着レベルで授業進度が展開されます。英検準2級が設定目標ならそこまで全員が達することを課題とされて授業展開されるということです。本校で求める生徒像もここにあります。不得手な科目から逃げる生徒ではなく、自分のペースで目的達成までチャレンジする生徒を求めます。無駄な知識というものはありません。21世紀に人類に求められる能力とは「智の編集能力」です。本校では「知能ロボ」を友達にするような好奇心の塊りの生徒たちとの出会いを大切にして行きます。本校の目指すものは、好奇心をバネに上限を定めず学んで行ってもらうことを大事にする「ナレッジ・クリエイティング・スクール(智の創造学園)」の構築なのです。以下に本校の目指す教育方針を述べておきます。三十年後、世界は高度情報社会となっています。30年後の皆さんに贈るメッセージです!

 

校長 河合孝允

 

2016-04-01

 

 

駒込教育の目指すもの

-世界で戦えるリベラルアーツ教育の創造-

始めに:金融資本主義のもたらすもの

今、従来の「古典的教養主義教育」を復活させても、残念ながら「人工知能世紀」到来の今日、世界で戦える有為な青年を生み出すことは出来ない。

今、声高に「グローバリズム教育賛同」を主張する教育関係者は多い。しかし、そのグローバリズムとは世界を支配する「金融資本主義」の別名であることを本質的にどこまで分かって述べているのであろうか?客観的冷静にその「金融資本」の動きを俯瞰すれば、高校生でもその意図は読み取れる。その流れは、世界を新たに2分割して世界市場を実効支配するための「勢力再編」の動きである、と。それは、東アジアにおけるマレー半島の先端までに至る「大経済ベルト作り構想」や「アジア経済圏作り」を見ればよくわかる。日本経済界はその包囲網の集中砲火の中にある。国際金融資本のターゲットは高度経済成長を為し遂げた日本であり、2001年から始まり2049年までに完成させようとしている「対日経済戦略」のメルクマールがそこにある。

今、世界は多様化し多極化しどのように動くかが見えにくい不透明な時代に突入している。シリコンバレーに発するIT革命が国家の壁を越えて世界同時市場を生み出したからである。しかし、その当初、誰が「1国丸ごと1企業」の国家が金融市場に立ち現れることを想定したであろうか?

日本や欧米諸国は、歴史的に形作られた「社会」が先ず存在する。その社会生活の中に経済活動があり、その経済活動の中に企業活動があり、その上に、税を集めて国を運営する政府がある。このシステムにおいては国を凌駕する企業の存在など生まれはしない。だが、一国社会主義システムの国家が「1企業国家」として金融市場に王手を掛けてきたのが現実世界の今という時代である。「1企業国家」とは、国(政府)が全ての財を吸収する装置として作動するシステムの国家である。その支配下に社会や国民生活が存在する。吸い上げられた財は軍事力としてその姿を変える。その軍事力は無言の圧力として周辺諸国を威圧する。ITによる「第4次産業革命」の今という時代は、世界がネット化された時代であると共に、それを通して「陣取り合戦」をする超大国の「支配の手」がいやおう無く胸元にせまる時代でもある。世界空間が一つになったということである。即ちこれがグローバルである。「グローバリズム」とは「国際金融資本主義」の別名なのである。国家単位で富者が栄え貧者が零落する地球規模の「格差経済主義」の別名である。

 

一.グローバル教育はいかにあるべきか!

『グローバル教育』とは、今の世界の現実をリアルタイムでスピーディーに正確に把握できる生徒を育てることでなくてはならない。「IB的な英語教育」をすればそれがグローバル教育であるわけではない!事物全体の本質を理解し、そのうえで「最適行動」のとれる「ベストミックス」を持った生徒を育成することである。そのためには次の「3つのキーワード」が導入されなければならない。

@「Legal Code」 A「Moral Code」 B「Religious Code」の3つである。(ここで言うCodeとは「ある行動をとる時の「ベース」となっている価値体系」のことである。)

即ち、価値の中心を「フェアなルール」に置くことがリーガルコードであり、価値の中心を「より良い人間関係」に置くことがモラルコードであり、価値の中心を「宗教上の善」に置くことがリリジャスコードである。そして、世界の対立軸をバランス感覚で捉え、「マトリクス的思考」で解決して行ける倫理観、価値観を育て、「世界と対峙できる青年」を育成することが真の「グローバル教育」であり、世界で戦える「リベラルアーツ教育」と呼べるのである。

ではなぜ、今の日本の学校はこの当たり前すぎる課題に手をつけずに、従来の「均質的一斉授業」に拘泥しているのであろうか?大学におけるその「一斉教え込み教育」の結果は、次の様に報告されているのである。

― 授業の半年後、講義のあらすじを思い出せる学生は2%、キーワードだけなら思い出せる学生は29%、残りの約70%は何も覚えていない。―(Miyake2005)

国民の持つ学力は潜在的な社会資本である。それが今大きく揺らいでいる。とりわけこの10年行われてきた「ユトリ教育」がその深刻さを増長させたことは識者の指摘する通りである。

本校は世界史を俯瞰し「自分のなすべき課題」を見いだし、自己の「ライフデザイン能力」を有した生徒を先見的に生み出していく教育に着手する。さらに、「予測できない未来に対応する能力」、即ち、「ディープラーニングコンピテンシー」として定義されている6つの能力、@キャラクター、Aシチズンシップ、Bコラボレーション、Cコミュニケーション、Dクリエイティビティー、Eクリティカルシンキングの能力の育成を図って行く。それを「ICT+アクティブラーニング」の授業展開において実践する。21世紀に開かれた駒込教育の開始である。この春の「本校中高新入生608名」全員にタブレットを持たせ、電子黒板・プロジェクターを駆使したICT授業を導入した。ほどなく大学入試が必然的に知識活用能力を問うテストに移行し、コンピュータによるテスト「CBT」に移行するからである。今、ICT改革できない学校は公私を問わず淘汰されて行くであろう。本校は自校の建学の精神を縦軸に、世界とつながる力を横軸に据えて、自己を世界に発信できる有為な生徒の育成課題にチャレンジする。グローバル化の世界の中で自国の歴史・伝統・文化を守り発展させることの出来る人材、即ち、多国籍化する世界の中で戦える有為な人材育成を開始する!

 

二.創造的教場作り
  組織発展の原理原則は「絶対に自分が良くする!」という帰属意識の高い教職員集団のモチベーションの高さにゆだねられる。マニュアル人間を生み出すことでもなければ取り決め主義集団で固めることでもない。音楽であれ絵画であれ創作・創造はすべてリスク挑戦を内包する。単なる技術のスキル争いではない。創造力の勝負である。教育者として自己にゆだねられた教育権をどのように創造的に行使して行くかが問われているのである。生徒に『この先生なら、雨の日も風の日もついて行く』と決意させられるかどうかの「教員としての人間性の勝負」である。時代や環境や立場の問題は二義的要素でしかない。教員としての自己の怠惰を合理化する隠れ蓑的言動ほど惨めな言動はない。授業アンケートの生徒の声に耳を傾け、謙虚に自己を分析し、生徒のレベル向上に対応した授業創造を行わない教員に「明日の教場が保障されることはない」という、厳しい時代状況を知るべきである。

本校はこの春、入試に弾みがつき、中学で3クラス(102名)、高校では12クラス(506名)の計608名の入学生を迎え、特別教室の改造、プレハブ校舎の増築と定員増に伴う対応に追われている。うれしい悲鳴であるが、むしろ、本校と競合する私学各校が軒並み入学者数を大きく落とした現実を厳しく直視すべきである。どの私学も「失点」や「悪材料」の見当たらない中での「大きな入学者減」であるからである。時代はすでに「ICTバーチャル空間」での情報戦の時代に突入している。「第二次情報では人は動かない」ということである。新時代対応の「創造的な改革」が生命線となっているということである。

 

三.立体型教育創造へ

これまでの「スタテイックラーニング」が縦軸(X軸)の偏差値教育であるとすれば、これからの教育は、横軸(Y軸)としての「思考力・判断力・表現力」を観る「アクティブラーニング」の時代となる。しかし本校はこれに終わってはならない。本校は「仏教的人間像」の育成に重きを置く学校であり、比叡山研修や日光山研修を初めとした諸行事を通して「心の教育」を行う学園であるからである。これをZ軸としてとらえ「立体構造的」な教育創造を図って行く。自己肯定感をしっかりと有した慈悲の精神を体現した生徒の育成である。どの分野に進んでも、その場になくてはならない「一隅を照らす人材の育成」である。偏差値がいくら上がろうと、人間としての「器」の問題をおろそかにはしない。『忘己利他』の精神を心の座標軸として一歩を踏み出せる有為な生徒の育成を図って行く。個性とはわがままを認めることではない。困難を請負ってわが道を独自的に進むという、高い精神性に基づく個性尊重でなければならない。

 

四.ICT授業の導入

今の生徒達が社会に出て職業につく時代は産業界に大きな構造変化が惹き起こされている。人工知能があらゆる職場に投入され無人化が当たり前の時代となるからである。ICT授業の導入とは、その来たるべき新時代に自己のライフデザイン能力を駆使して、自律した職業選択の行なえるスキルを、今からしっかりと与えておくという「未来投資」の教育を行うということである。

この新技術のICTを駆使した教育は、私達が受けてきたこれまでの教育とは教育目的そのものが大きく異なることに気づかねばならない。そのことに気づかない学校は、わが子の未来を先駆者的に考える新しい世代の受験層から確実に見放される。それが顕著に現れたのが今回の私学中高の入試結果である。それなりの受験進学校が軒並み入学者減となる中、本校にバブル的に新入生が集まったのは、未来投資型教育に関心を寄せた層が広がったということの裏づけに他ならない。この期待感の上に本校の立ち位置がある。これからの教育は「生徒が先生の説明を聞く」というこれまでの「受動的学習」から、「生徒はあらかじめ準備をした上で授業に臨み、主体的に、ディスカッションやグループワークに参加して学んで行く」という授業スタイルに切り替わる。本校においては今まさに実践的にどのようにアクティブラーニング型の授業に切り替えて行くかが問われている。「ICTプロジェクトチーム」の第一義的検討課題である。教科ごと学年ごとに定期的に検討会を重ね情報交換しながら研修を重ね、夏の教研課題として集約して行く。

以下に、ICT導入に当たって述べた校長指針を採録する。

 

ICT授業の導入に当って

はじめに

目標設定の無い教育実践は、「明日の授業」を「未来」として生み出すことは出来ない。授業経営にしろ学級経営にしろ、現状に甘んじることは変革の流れから置き捨てられて行くことを意味する。未来創造の教育実践においては、常に将来目標に向けて「計画ある営み」を怠りなく継続して行くことが何よりも大切である。「学校存在」の意味は、いつの時代も常に生徒の「未来保障」をどのように「スキル化」して与えて行くかにある。時代は今ITからICT時代へと大きくウイングを切っている。以下に、ICT授業導入に当っての「基本的視点」並びに「課題」と「目標」について記す。

 

ICT時代の2つの側面
スーパーコンピュータ(SCP)や人工知能機器の発達によってもたらされるICT時代は「光と影」の2つの側面を強く持つ。
1つは、SCP(人工知能機器)が人間の仕事を代行して、過酷な労働から人類を解放し、「コンピュートピア」の世界をもたらしてくれるという「光の側面」である。即ち、「文化・芸術・哲学・宗教」に基礎を置く「ハートオンデマンドの世界」をもたらしてくれるという「未来創造」の側面である。

1つは、SCPを掌握する大国や支配者による、グローバルな一極支配の世界をもたらす危険性があるという「負の側面」である。SCPによる「国民総背番号化」・「監視・管理システム」の時代の招来である。

「現在進行形の世界」の姿は、残念ながら後者の流れが顕著であり、先進国の富裕化と途上国の貧困化という構図がより鮮明になってきている。同時に、各国ともその国内において収入格差に基づく「人格権に及ぶ格差社会」の広がりを見せている。その分岐点は、SCPを「使う側」に立つか、それともSCPに「使用される側」に立つかの択一へと進行している。知的職業の弁護士といえども、SCPを使用する「少数の管理職弁護士」と、そのデーターに基づき働かされる「多数の一般弁護士」との格差は決定的となる時代を迎えている。即ち、単純労働だけでなく知的労働のほとんどまでもが、SCPの投入によって、その構造と機能のダイレクトな格差化が余儀なくされる時代を迎えている。すでに内閣府の試算において、本邦の20年〜30年後は、今の週当たり40時間労働が15時間労働となると予測されている。また、今ある職業の65%〜90%が消失すると予測されている。産業界のオートメ化が進み、完全自動制御システムの「無人化された職場」が一般的になるからである。言い換えれば、世界的規模で「大量転職時代」が到来する。その転職先は、既存の職業にはもう喪われて存在しなくなる。新たに、アントレプレナー的に自らのライフデザイン能力を駆使して新規事業を生み出すか、新規業務に適合するスキルを新たに身につけるかを国民各自が果たさねばならなくなる。今の生徒たちが壮年期に達する時代にそれはやってくる。今、本校が導入しようとしている「ICT教育&アクティブラーニング」の目的は、この新時代対応の先行投資である。日本は「教育立国」として21世紀を乗り切らなければならない「少資源国」であるからである。

 

「アルゴリズム」

今、本邦において生徒に与えようとするICT教育は、ICT機材を使いこなすスキル指導は当然のことながら、それにとどまるものであってはならない。その中心は「アルゴリズム」に対する思考力・判断力・表現力そして批判力の養成にある。

※「アルゴリズム」とは?…それは、「与えられた形の全ての問題を解くことのできる一連の演算を、その遂行順位を厳密に定めて記した指令」のことをいう。

機械はプログラムされた指令通り厳密に狂い無く仕事を果たす。だが、人は異なる。感情がノーと言えば理屈や論理より感情行動を優先するからである。絶対命令通りに機械的に寸分の狂い無く生活することを希望する人間は価値観がロボット化された人々のみである。だが、その可能性が拡大する危険性が無いわけではない。SCP支配の下、蟻塚のアリのごとき生活を21世紀高度情報社会の「国家観」とする国際紛争の力学もまた明確に存在しているからである。よって、今この瞬間から、SCP(機械)と人間(生命)とのその本質的な違いを明らかにする学習が強く求められる。人間と人工知能との対立する諸問題を、「物質観・生命観・人生観・価値観・哲学・宗教観」にまで連動して浮き掘りにし、人間と機械との長所・短所を冷静に分析できる能力を養い、人間にとってSCP(機械)とは本来何ものでなければならないのかを明らかにできる「人間性」そのものを育むことのできる「教育プログラム」が生徒に与えられて行かなければならない。戦後の公立学校のように哲学や宗教を棚上げした単なる「プラグマチックな教育」としての「ICT教育」は、操作主義的な「ロボトミーな生徒」を大量生産するだけの危険性を内包しているからである。仏教系私学としての本校のICT教育は、人工知能のアルゴリズムを絶えず疑い、人間に災いするプログラムに対する修復機能を絶えず制御システムに落としこんでいくことの出来る「ヒューマンな人間」を教育することになければならない。

 

「人間と機械」

人間が行う計算は、演算数を数値そのものとして表現するだけで終わるが、SCP上の計算は[記憶装置のアドレス(番地)]という「思想」で行われる。これによって、「コンピュータマインド化」した「オタク人種」はこの後者の思想を自己の一部に人格化してしまう。即ち「ロボトミー化」する。人は「人間性の内」に「人として生きる」のであって「人間疎外」の「バーチャル(仮想)空間」に生きるものではない。水の本質は目には見えない。水の本質は生命である。砂漠で遭難してみればそれがよく分かる。「生命の渇き」の無いバーチャル空間に人間性を落とし込んではならない理由がここにある。私たちは次世代の生徒たちにICT教育を施すに当って、インフレクションとエンパシー、即ち、共感と内省の育成指導を怠ってはならないであろう。時代を「どのように作り変えることが大切であるのか」を考えさせ、創造的に時代精神にチャレンジさせて行かなければならない。

 

「SCPの構造と機能」

SCPは入力装置と出力装置だけが目に触れる。しかし、本質的なものは、「記憶装置と演算装置と制御装置」であり「眼には見えない」。「記憶・演算・制御」は一体化された機能であり、その中で命令を含んだプログラムを解読する中枢は「制御装置」にある。よって、大切なのは、どのような「制御プログラム」を開拓するかにある。だがそこには、政治的イッシュー(争点)を含むグローバルな競争原理と思想が直接的に介在してくる。学習者には常にそのことに注意を喚起していくべきである。

 

「ICT革命」

ICT革命は、「情報処理」と「電気通信」の2つの技術の有機的な結合である。情報革命は、情報の「発生・伝送・変換・蓄積・処理・記憶・配分」に対する「内容上」の革命である。この情報革命によって大量の情報の記憶と処理をSCPが受け持ち、人間の「アイデア、創造、判断、学習、パターン認識、設計」の能力を充分に発揮できるようにし、併せて、SCPをパートナーとして利用し、その応用可能な空間と処理時間を短縮するように導くのがICT教育の目的であり、総称してアクティブラーニングと呼ばれる教育手法に持ち込まれる情報通信スキルである。情報革命がもたらす最大の特色は、これまで物理法則のみで支配されていた技術が、人間個人や社会のあり方と連動し直結するということである。言い換えれば、21世紀の高度情報社会は、「人間・民族・国家」という「風習と伝統と法律」といった作用の中で機能する情報機械の世界となる。教育の場においてもそれは同時進行する。一人の生徒の情報と知識の獲得段階においてもICTによって置き換えられる段階が生まれる。個人教授用のティーテイングマシーン(東大受験指導用ロボット等)の出現も時間の問題である。すでに、「計算・分類・照合・記憶」など、単純でアルゴリズムの判明している分野における人間の優位性は失われている。これらの分野では全てのSCPの圧倒的優位性のもとに時代は推移している。このとき、人間に求められる能力は、SCPに問題を解かせるために、問題のシステムを解析する能力であり、与えるアルゴリズムを克明に調べ新たなプログラムを生み出す能力でなくてはならない。さらには、与えるデーターを検証する能力であり、それらを解釈し創造的な活動の展開を図る能力である。研究も、SCPに与えるまでの「問題それ自体の意味」を解きほぐし、その出た結果を「人としての立場」で解釈し、検討を加える能力を有することが強く求められる。SCP(機械)の価値は人間の不得手なことを援助させることにある。言い換えれば、不得手な部分はSCPに任せ、「人間でなければできないこと」へ、人々をより多く従事させる時代を創出することが課題となる。労働環境を悪化させ大量の失業難民を生み出すことではない。

 

技術革新時代の学校と教育

技術革新の時代は、1つの新機軸、その知識、その将来性などの予測によって学校(特に私学)も企業もマーケットの対応が激変し運命が大きく変わって行く。言い換えれば、常にめまぐるしい情勢判断を求められる時代となる。私たち教員も時代に対するマネジメント能力を強く求められる時代となって来ている。実際、このマネジメント能力に欠如した場合、大手家電メーカーの身売り同様の危機的状況に似て、存立の危機に立たされている学校も生まれている。マネジメント能力は管理職のみに求められるものではない。生徒保護者に接する「授業者・担任」にその授業運営およびクラス運営において、より強く求められているものである。すでに時代は、ICT変革を拒否して「経験則にぶらさがる教員」が多数を占める職場を許容しない時代状況をもたらしている。当然、どこの職場もICT改革を開始している。だが、このとき、改革には「二通りの異なった道」が存在することに注意を図るべきである。一つは、強い個人のリーダーシップ性の下に一元的に行われる改革であり、もう一つは、多数のフォロアーシップ性と連動した改革である。21世紀型改革は当然ながら「後者」である。全ての構成員がトップとオンデマンドに結びつき、「任された仕事の最終責任は自分にある」という自覚と意志と主体的行動を示し、上位者はその仕事を常にフォローし、生み出された「果実・成果」をその「個人・グループ」に帰結させ評価し、成果に見合った待遇を与えていくというシステムの確立である。21世紀初頭に始まった海外先進企業の改革戦略がこれであった。いわゆる「違いを認める改革」といわれる「CI改革(コーポレーションアイデンティティ改革)」と呼ばれた企業改革である。日本の大手企業はいずれもこの改革に10年の遅れを取り、海外企業の後塵を拝して現在に至っている。学校のICT教育の立ち遅れはアジア諸国に比してさえ大幅な立ち遅れを呈しているのが現状である。

 

本校の取り組み指針

本校の研修は学内のICT教育実践のための研修であるが、上記に述べたように、バックグランドに人類史上これまで経験の無い「SCP技術革命」の時代背景を控えている。校内研修を皮切りに、生徒を含めた学内のICT化を全員体制で図って行くことが喫緊の課題である。すでに、そのための先行集団の研修はこの一年間「ICTプロジェクトチーム」において取り組んできている。その経験を生かし28年度新学期より全員参加体制の下「ICT授業」をスタートさせる。整備されたWiFi環境の下で、新入生608名全員にタブレット端末を持たせ、電子黒板とプロジェクターを用いたICT授業を展開する。本校における「ディープラーニングコンピテンシー教育」の幕開けである!

 

五.バーチャル時代の生徒指導―心をケアしたカウンセリング指導の確立!―

今の生徒は「リアル感喪失世代」と言われている。スマホやゲーム機などの仮想空間で育っているからである。その裏返しとしてコミニケーションの不得手な生徒が増えている。それはまた、知能や学力とは関係の無い生活スキルの後退現象として現れている。集団になじめない、いらつく、不安になるという気分的なものから、登校拒否に結びつく自閉的症状まで多極化している。東京私学研究所ではこれらの問題について研修を重ねている。以下にその要旨をまとめて記す。生徒指導の一助にしていただきたい。

@生徒との接し方:

・悩んでいる生徒の痛みがわかる言葉がけや接し方が基本である。

・中学一年と高校3年では精神年齢が異なる。発達段階を踏まえた接し方が大切である。

・反発する生徒には夢と希望を、頑固な生徒には共感を、率直な生徒には誉める言葉がけが大切。その生徒の特性によって柔軟に対応を変える接し方が求められる。

・その生徒の可能性を消さないで誉めて伸ばす。生徒の達成感を引き出す。

・できると思わせ努力を促す。ポジティブな視点で関わり柔軟対応する。

・一人ひとりを独立した人格として扱い、思いやりを持って接する。

・教員側が苦手意識をその生徒に持たない。見方を変えるヒントや新しい物差しを持つ工夫が大切。決め付けないことである。

Aヒアリング:

・生徒の伝えたいことをそのまま受止め、カウンセリングの傾聴レベルで話を聞く。

・心を開かせる聞き方を心がける。

・聞く耳を持ち、頭ごなしをやめ、生徒の立場を考える。

・発達障害の生徒は多種多様であることをキチンと理解したうえで、親のニーズの実体を知った上で、それに即した正しい対応をすることが大切。

・生徒にやる気を起こさせる声がけをしながら話を聞く。

本校の生活指導は厳しい中にも慈愛のこもった人格指導が求められる。具体的には生活指導部の方針にゆだねるが生徒を一個の人格として丁寧に指導することを原則とする。

 

六.「イジメ」について

戦後教育の花形としてHR活動が導入された。だが、同質的な「金太郎飴集団」は作ったが、自立した個性・自我を育てたとは言いがたい。むしろ、仲良く出来ない孤立型、孤独型、自立型の子供を集団から排除する結果をもたらしてきた。個性重視をうたいながら個性型の生徒は集団からのハズシやイジメを受ける結果となってきた。それは、目立つ子、出来る子、きれいな子、先生に好かれる子…と拡大した。やがて「クラスカースト」が発生した。クラス内に「上級・中級・下級」の階層が自然発生的に形成されたのである。即ち、封建時代に上級武士の子弟と下級武士の子弟が同席できなかった「藩校」のごとく、「身分性社会」が学級内に生み出されたのである。授業中、質問してよいのは「上級者」だけであり、笑ったり発言してよいのも「上級者」だけである。「中級者」は「上級者」の許可があればやっても良いが、下級者」は私語も質問も笑うことも居眠りも許されず、一言も発言が許されないのである。「教員は、規律正しい良いクラスが形成されたと錯覚して、「上級者」を委員長にしたり班長にする。この瞬間、「上級者集団」は教師の権威を我が物にして、「下級者」への「からかい、はずし、いじめ」を繰り返し絶対的な「恐怖政治」を常態化する。「おまえ死ね!」と言われれば「自殺するしかない!」と思いつめる生徒がここに生まれるのである。保護者が「頑張ってきなさい!」といったところで無意味なのである。死なないための唯一の策が部屋から一歩も出ないで「不登校」になることなのである。その子供は「不登校になれた」からこそ、生命が繋がったのである。教育現場の「みんなで仲良く」の「取り決め」は、「仲良くできなかった悪い子」を排除して終わる。このスクールカーストが進むと「逆さピラミッド型クラス」となる。三角定規をさかさまにした構造の最下部にいじめられっ子が据えられるのである。こうなると誰がイジメをしたかでは無く、逆さピラミッドの底辺に位置づけられた「たった一人の生徒」が、クラス全員の「イジメ」のまなざしの中で生活することとなる。彼が手に触れたもの全てが「汚い!」とされる。まさに、カースト制度の「不触民」としての蔑視を受けるのである。そして『自分もされるのではないか!』という裏返しの恐怖感がクラス全体を支配する。個々の生徒は「良い子」であっても、自分がその立場に落とされるのは「絶対にイヤだ!」という思いが加害者側に走らせるのである。北海道の真冬はマイナス30度の厳寒の世界である。だが、女子高校生は太ももあらわの超ミニスカートで登校する。みんなと一緒でなければ「ハズされ」「イジメられる」からである。その恐怖感の方が教師の服装指導よりはるかに強制力を持つのである。この種の学校では、「飛び降りて死ね」と言われて屋上から飛び降り自殺した生徒が生まれてはじめて「犯人探し」が保護者会を巻き込んで始まる。だが、カーストは眼には見えない。生徒の内部意識だからである。加害者側の保護者もまた、自分の子供が加害者側であったなどとは感情的にも絶対認めない。そもそも加害生徒自身が『自分がやった』などとは思ってもいないのである。「みんながふざけて『死んだら』と言ったら死んじゃった」というレベルなのである。したがって、保護者会での発言は「学校の対応に誤りは無かったか?」に収斂する。教育委員会が行政上乗り出し、「学校対応」に問題は無かったことを説明し、校長や担任を他校に更迭して終わりとなる。だが、ミニスカートが残り続けるのと同様、カースト意識も残り続けるのである。今、フリースクールに集まる子供たちは少なからずこの「スクールカーストの被害者たち」である。恐怖と学校不信によって心に傷を負った子供たちである。その直接原因はたとえば「メル友ハズシ」にあったという単純なことからスタートしている。それまでラインで結ばれたメール仲間からある日突然「一斉着信拒否」を受けたところから始まるのである。たとえば、ある女子校で、演劇部の主役に抜擢された生徒がそれを理由に「メル友はずし」に会った。その子は恐怖感を抱きただちに転校をしているのである。「自由放任型」の学校、即ち、「Free from〜(何々からの自由)」の学校はジャングルの「弱肉強食の世界」を生み出すために生徒の安全を守れないのである。同じ自由律の学校でも、指導をその子の個性に併せてキチンと行いながら「目的選択の自己決定権」を保障する「to Free(何々への自由)」を保障する学校のみが、生徒の安全と生命の輝きを保障できるのである。生徒は学校によって生きるのではない、学校の意味によって生きる。本校は「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」を建学の精神とする学園である。イジメの構造と時代性にキチンと向き合って、子供達の瞳の明るく輝く学園作りを推進して行く!

校長 河合孝允